若くして亡くなったいとこを想う   

私達の時代は きょうだいが多かった。
その親の世代はなおさらである・・・・


だから 私のいとこは 父方、母方を合わせると 恐らく40人近くいる。それが当たり前・・と思っていたが・・・・。

今の子供たちは きょうだいのいない子も大勢だし またいとこのいない子もたくさんいるだろう。
でも きょうだいとはまた違って いとこは貴重な存在だと思う。

盆や正月などに 久しぶりに出会ういとこと 背比べをしたり また男同士なら相撲をとったり・・・・
子供時代は 自分より少しでも大きなお兄ちゃんやおねえちゃんは大好き。ついて歩く。
そして 自分より小さないとこのことは 大した身長も違わないのに 抱っこしたりおんぶのまねごとをしたり・・・・
楽しい思い出がたくさんある。



大好きだった私のいとこが昔 ほぼ50年前のことであるが 小学校の教師をしていた時にあっけなく世を去った。30歳だったと思う。
幼い息子を残して・・・


そのいとこの小学生のころの恩師はあの小説家、三浦綾子さんで そのことを思い出していろいろ調べていたら心打たれる言葉があった・・・・


有名な≪氷点≫という小説は あまり好きではないが 下に心に響く言葉を列記しておく。





九つまで満ち足りていて、
十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、
人間はまずその不満を真っ先に口からだし、
文句をいいつづけるものなのだ。
自分を顧みてつくづくそう思う。
なぜわたしたちは不満を後まわしにし、
感謝すべきことを先に言わないのだろう。
私たちは、毎日生きています。
誰かの人生を生きているわけではないのです。
自分の人生を生きているのです。
きょうの一日は、
あってもなくてもいい
という一日ではないのです。
もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、
きょうという一日が
どんなに貴重かわからない。
ちょっとした一言を言うか、言わぬかが、
その人、その家の幸、
不幸の岐れ路になることが案外多い。
一言の言葉は五秒とかからぬものだ。
お互い、言うべきときに言える素直さと、
謙遜さを与えられたいものである。
ほんとうに自分の行為に
責任をもつことができる人だけが、
心から「ごめんなさい」
と言えるのではないだろうか。
「ごめんなさいね」
なんと美しく、謙虚で、素直な言葉だろう。
言葉を交わすことによって
私たちは、勇気づけられ、慰められ、
喜びを与えられます。
と、同時に、人を傷つけ、
見下すという愚かな過失も犯します。
言葉は人間の運命をも変えるほど
大きなものです。
秀れた人間というのは、
他の人間が、
愚かには見えぬ人間のことだろう。
今日という日には誰もが素人。

やれるかも知れない、と思った時、
自分でも気づかなかった力が
出てくるものなのだ。
初めから、できないと言えば、
出来ずに終わる。
苦難の中でこそ、
人は豊かになれる。
人間てね、その時その時で、
自分でも思いがけないような人間に、
変わってしまうことがあるものですよ。
片目をつむるというのは、
見て見ないふりじゃなく、
つむっている片目では、
自分の心の姿も見るといいのね。

何十億の人に、かけがえのない存在だと、
言ってもらわなくてもいいのだ。
それはたった一人からでいい。
「あなたは、わたしにとって、
なくてはならない存在なのだ」と言われたら、
もうそれだけで
喜んで生きていけるのではないだろうか。
今までふり返ってみて、
大きな不幸と思われることが、
実は大切な人生の曲がり角であったと、
思われてならない。
つまずくのは、
恥ずかしいことじゃない。
立ち上がらないことが、恥ずかしい。
夫婦関係でも、嫁姑の関係でも、
労使関係でも、友人関係でも、
相手は人間である。
この相手を知り、自分を知ることが、
人との関係を保つ基本ではないか。
人生というものはすべて、
待つ間に熟して行く。
人生における病気、失恋、浪人、
破産などのさまざまの失敗も、
それにうちひしがれては単なる失敗で終わる。
世界一のホームラン王は、
失敗もまた他の人より多かった。
失敗を恐れて何もしない人間こそ、
全生涯が失敗となる。

コメント

このブログの人気の投稿

牛乳パックで小物入れ

リリアン編み

熊!!あらわる   そして 山を守る使命感!