責任はいずこ?
宝塚線脱線事故から 4月25日で10年だという。
あの日、私たち夫婦は 札幌の私の実家にいて 元国鉄マンの 義兄とともにそのニュースを聞いた。
第1報では どのような事故かよく把握できなかったが 義兄はやはりJRの味方、すぐに「乗用車が 線路に突っ込んできて脱線した・・・・・」というようなことを言った。
その後 【スピードの出し過ぎで カーブを曲がりきれなかった・・・・】ということが分かったが 107人が亡くなり、それ以外にも大けがをした人、PTSDを未だに引きずっている人、とても多くの人が犠牲になり 忘れられない事故である。
たまたま その電車に乗り合わせていただけで 命を落とした方々の無念さを思うと 胸が痛むが 遺族が言うように 「二度とこのような事故のないように 原因を探る」こともとても大切な事だろう。
JR西日本の責任が問われ 「運転手はまじめだったから 列車の遅れを取り戻そうと必死で
スピードを出し過ぎたのでは・・・・」との意見もあり 最初「運転手は死んでしまったし 犠牲者はどこに怒りをぶつければいいの?」と思っていた 私の認識の甘さを考えさせられた。
そのもっと前の御巣鷹山の日航ジャンボジェット機の事故の日には 我々家族4人札幌にいて
私と長男だけは 先に千歳から伊丹を経由して 帰宅した。
あのころは携帯電話はなかったので 飛行機をおりたら必ず空港から「無事着いた」旨 母に連絡していた。
その日ももちろん連絡をしてあったが 札幌では飛行機事故ということで大騒ぎしていたらしい。
私と息子は自宅に着き テレビのニュースを見て仰天した。
そのほぼ10年後 オウムの地下鉄サリン事件の時には 夫の母がこの家に滞在している時で
「あっちもこっちも同じような異臭が・・・と言うことは宗教に関するものたちの犯行に違いない」などと言いながら ニュースから目が離せなかった。
1972年の浅間山荘事件の救出劇の時には 夫の両親がやはり我が家に泊まっていて その日帰宅のため 伊丹へむかおうとしている直前で その時にも 不安な気持ちを抱えながら テレビに見入った。
偶然だとは思うが 我々の両親と接している時に多く 飛んでもない事故や事件が起きていて・・・・
あまりゲンかつぎをしないほうだから それ程気にせず たまたま・・と思っているし 事件の度に親のことを思い出すから いいか・・・などと思ったりもしている。
あの日、私たち夫婦は 札幌の私の実家にいて 元国鉄マンの 義兄とともにそのニュースを聞いた。
第1報では どのような事故かよく把握できなかったが 義兄はやはりJRの味方、すぐに「乗用車が 線路に突っ込んできて脱線した・・・・・」というようなことを言った。
その後 【スピードの出し過ぎで カーブを曲がりきれなかった・・・・】ということが分かったが 107人が亡くなり、それ以外にも大けがをした人、PTSDを未だに引きずっている人、とても多くの人が犠牲になり 忘れられない事故である。
たまたま その電車に乗り合わせていただけで 命を落とした方々の無念さを思うと 胸が痛むが 遺族が言うように 「二度とこのような事故のないように 原因を探る」こともとても大切な事だろう。
JR西日本の責任が問われ 「運転手はまじめだったから 列車の遅れを取り戻そうと必死で
スピードを出し過ぎたのでは・・・・」との意見もあり 最初「運転手は死んでしまったし 犠牲者はどこに怒りをぶつければいいの?」と思っていた 私の認識の甘さを考えさせられた。
そのもっと前の御巣鷹山の日航ジャンボジェット機の事故の日には 我々家族4人札幌にいて
私と長男だけは 先に千歳から伊丹を経由して 帰宅した。
あのころは携帯電話はなかったので 飛行機をおりたら必ず空港から「無事着いた」旨 母に連絡していた。
その日ももちろん連絡をしてあったが 札幌では飛行機事故ということで大騒ぎしていたらしい。
私と息子は自宅に着き テレビのニュースを見て仰天した。
そのほぼ10年後 オウムの地下鉄サリン事件の時には 夫の母がこの家に滞在している時で
「あっちもこっちも同じような異臭が・・・と言うことは宗教に関するものたちの犯行に違いない」などと言いながら ニュースから目が離せなかった。
1972年の浅間山荘事件の救出劇の時には 夫の両親がやはり我が家に泊まっていて その日帰宅のため 伊丹へむかおうとしている直前で その時にも 不安な気持ちを抱えながら テレビに見入った。
偶然だとは思うが 我々の両親と接している時に多く 飛んでもない事故や事件が起きていて・・・・
あまりゲンかつぎをしないほうだから それ程気にせず たまたま・・と思っているし 事件の度に親のことを思い出すから いいか・・・などと思ったりもしている。
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