心の手紙

冠婚葬祭会社が「つたえたい、心の手紙」コンテストをし 大津在住の女性が銀賞受賞した、ということことが新聞に載っていた。


終戦まもなく朝鮮半島で生まれたこの女性は  着の身着のまま父母や兄姉とともに6人で日本へ引き揚げてきた、のだそう。
荒れ狂う波しぶきの中、やみ船で親子6人無事日本の地を踏めたことが最高の幸せ!最高の感謝!とひたすらがんばって自分たちを育ててくれたのだろうと思っている。
それなのに母親に反抗した中学時代、「引き上げるときに私を海に捨ててくれたらよかったのに・・・」と言ってしまい  母の無言で悲しげな後ろ姿をずっと忘れられなく 今でも詫びても詫びても涙があふれる思いをつづった作品だそう。



これを読んで私も母にかわいそうな思いをさせてしまい後悔していることを思い出した。
30代40代はあまり体調がよくなかった私は ちょっとしたことでも心配になり病院通いをしていた。
①股関節のかみ合わせ?が生まれつきよくない、開脚のストレッチなどを無理してしないように・・・・・
②心臓に異常がある。洞性徐脈・・でもこれまで何もなかったのだからあまり気にしないで普通に暮らしても大丈夫
③生まれつき緑内障の視神経の形状がある。視神経乳頭陥凹大で 開放隅角緑内障と言われる。3ヶ月ごとの検診を勧める



こんなびっくりするようなことを言われ ③などは二人のドクターに「教科書通りの緑内障の形状」とまで言われた。
診断を受け20年以上たっている今も3つとも全く問題なく生活しているが
母が90歳くらいの時に二人でしゃべりながら「私は 〇〇と〇〇と〇〇が悪く すべて生まれつきと診断された」と何気なくしゃべった。
その時母は無言だったが 初めて見るほどの悲しそうな顔をした、と記憶している。
私はもちろん 母を非難するつもりは全くなかったのだが 母としたら「生まれつき」と言われたことは自分に責任がある、と思ってしまったのだろう。


食料難の時代に 「6人の子供のおなかを満腹にさせることだけを考えて暮らしていた」と晩年 戦中戦後の暮らしのことを振り返っているのを母の口から何度か聞いている。
私が物心ついてからは 少しでも安い食品を買いに・・・・と 大きな風呂敷(!)をもって(👈帰りは当然品物を入れ背負う) 市電に乗り叔母と一緒に買い出しに月に何回か行っていたのを思い出す。
鉄道弘済会?鉄道購買会?と言っていたっけ・・・・ どちらかはわからないが あの頃はスーパーもなく 生協などでの共同購入などもなく・・・・・非農家だった我が家の食料調達は本当に大変だっただろうと思う。


今と違って 本当に比べ物にならないくらいの苦労をした母たちの世代。
何をいまさら・・・・という気もするが 感謝しなければならないのに ただの一度も「生んでくれてありがとう」 などというような言葉など 言ったことはない。
きょうだいの中で最も遠くに住んでいた私が 母のところへ行くのをいつも指折り数えて待っていてくれた母、自分が高齢者になって初めて 母親の子供に対する思いの深さを実感している。
今の気持ちを 手紙に書き母に読んでもらえるものならそうするのだけれど かなわないことですよね~





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